風間ゆみ ── すべての男たちが還る場所、母なる海
言葉が、意味をなさない。 「熟女」という、あまりにもありふれた、そして時に無神経なそのカテゴリは、彼女の前では、まるで塵のように無力だ。 僕たちが「風間ゆみ」という、たった四文字の音に触れるとき。それは、ジャンルやカテゴリといった矮小な分類を、遥か彼方に吹き飛ばしてしまうほどの、一つの巨大な「現象」との邂逅を意味する。
彼女がいつから僕たちの前にいたのか、もはや正確に思い出すことすら難しい。まるで、物心ついた時から、彼女はそこにいて、僕たちを静かに見守っていたかのような、そんな錯覚さえ覚える。 彼女の登場は、一つの「発明」だったと僕は思う。いや、違う。彼女は、僕たち男が、心の奥底で無意識に求め続けていた「何か」を、初めてこの世に具現化してくれた存在なのだ。
その「何か」とは、一体何だったのだろうか。 それは、おそらく「究極の母性」と、それとは決して相容れないはずの「生々しい女」の、奇跡的なまでの同居だ。
彼女の微笑みは、深い。 まるで、僕たちがこれまで犯してきたすべての過ち、抱えてきたすべての弱さ、誰にも見せられなかった醜い欲望さえも、「それでいいのよ」と、すべてを肯定し、包み込んでくれるかのようだ。その温かく、どこまでも深い海のような包容力に、僕たちはどれだけ救われてきたことだろうか。 彼女の腕の中では、社会的な地位も、見栄も、プライドも、すべてが無意味になる。僕たちは、ただの「少年」に還り、その母なる海に、身も心も委ねてしまいたくなるのだ。
しかし、僕たちが彼女から永遠に逃れられない理由は、それだけではない。 その慈愛に満ちた瞳の奥に、ふと、少女のように無邪気な光が宿る瞬間がある。そして、次の瞬間には、僕たちの理性を焼き尽くすほどの、抗いがたい「業(ごう)」の炎が燃え盛るのだ。
彼女が放つエロスは、若い女優たちが見せる、刹那的なきらめきとは、根本的に種類が違う。 それは、テクニックや演技といった、陳腐な言葉で語れるものではない。 彼女が歩んできた人生、その時間、その経験、そのすべてが濾過(ろか)されて生まれた、あまりにも濃密で、あまりにも「本物」の情念だ。 彼女が吐息を漏らすたび、僕たちは、人間の根源的な「生」のエネルギーを、否応なく見せつけられる。
風間ゆみ。 彼女は、レジェンドと呼ばれることを、今もなお拒み続けているかのように、現在進行形で、その凄みを増し続けている。 年齢を重ねることが、これほどまでに官能的で、これほどまでに美しい奇跡なのだということを、彼女はその存在すべてをもって、僕たちに教え続けてくれている。
僕たちは、彼女から逃れることはできない。 いや、そもそも逃れたいとさえ思っていないのだ。 疲れ果てた夜、傷ついた心で、僕たちはまた、あの母なる海へと還っていく。 すべてを許され、すべてを曝け出すために。
彼女こそが、僕たち男が最後に辿り着く、永遠の場所(ふるさと)なのだから。

