碧しの──聖域を抜け出し、泥の中でも気高く咲き誇る一輪の華
その立ち姿を見ただけで、息をのんだ。 背筋はどこまでもまっすぐに伸び、指先の動きひとつひとつに、計算され尽くしたような気品が宿る。彼女がそこにいるだけで、部屋の空気が凛と張り詰める。
「碧しの」
彼女がかつて、女性だけの聖域「宝塚歌劇団」にその身を置いていたという事実を知った時、感じたのは衝撃よりも、むしろ深い納得だった。身体の隅々にまで染み付いた、揺るぎない品格と優雅さ。それは、一朝一夕で身につくものではない。選ばれた者だけが立つことを許される、あの絢爛な舞台で培われた、魂の在り方そのものだ。
宝塚の娘役「柊ひな」として、多くの観客を魅了した彼女が、なぜ真逆とも言えるこの世界に舞い降りたのか。その理由を詮索するのは野暮だろう。ただ、我々はその「選択」という事実の中に、彼女の持つ激情と、表現者としての業の深さを垣間見るのだ。
彼女の作品に触れることは、禁断の果実に手を伸ばす行為に似ている。 宝塚という聖域で磨かれた、触れることすら憚られるような高貴さ。その彼女が、我々の前で、もっとも無防備で官能的な姿を晒す。この圧倒的なまでの「ギャップ」こそが、碧しのという存在を唯一無二たらしめている。
決して崩れることのない美しい姿勢、バレエのようにしなやかな手足の動き。そのすべてが、行為そのものを、どこか背徳的で耽美的なアートへと昇華させていく。彼女が浮かべる表情は、単なる快楽だけではない。喜び、羞恥、そして、抑え込んできた何かが解放される瞬間の、切ないまでのカタルシスが入り混じっているように見える。
それはまるで、完璧な額縁に収められていた名画が、自らの意志でそこから飛び出し、生々しい現実の泥にまみれながらも、その輝きを失うことなく、むしろ新たな生命力を得て咲き誇っている姿を見るかのようだ。
彼女は、聖域を抜け出した堕天使などではない。 自らの意志で、新たな表現の場を選び取った、一人の気高き表現者だ。
碧しの。その存在は、あまりにもスキャンダラスで、あまりにも美しい。私たちは、この奇跡のような物語を目撃できる幸運に、ただ感謝するしかない。彼女がこれからどんな華を咲かせるのか、そのすべてをこの目に焼き付けていきたいと、切に願う。